昭和五十六年六月四日 朝の御理解

 御理解第九十九節 「無学で人が助けられぬと言う事はない。学問はあっても真がなかれば人は助からぬ。学者が身を喰うという事がある。学問があっても難儀をして居る者がある。此の方は無学でも皆おかげを受けて居る。」


 真がなければ人は助からん。どんなに学問があったり常識が発達しておったりであっても、そこになら家庭に於いてもだからよい子が育つとは限らない。
 本当に教育とか学問とかといったような事には関心のないけれども、ただただ人間が実意であり、真でありそして各々が助かっていくという事。先ずは自分が助からねばならぬ。それには人が真でなければ助からないように、先ずは自分が真にならなければ自らが助からない。自らが助からずしておいて人が助かるという事は、いくら学問があって常識が発達しておっても出来る事ではない。
 言うて聞かせた位で人が助かるという事ではない。話が上手だから話を聞いて助かる道だからお話の稽古をさしてもらってそれこそ話家のような話が出来る先生の所でも外ではお説教をなさる沢山な人の前でまあ立派な話が出来られる先生の所でもね、教会では人が助からないという教会の先生も沢山ある、ね。
 結局自分が真になり自分がそこから生み出されてくるおかげ、体験がそれをもって人に伝える時に初めて人が助かる。それを私は真だとこう思う。真がなければ人は助からんと。為には先ず、自分が真になって自分が助かってでなければならない。
 此の方は無学でも人が助かっておる。いかに教祖の神様が実意な方であり、真の人であったかという事が分かるのでございます、ね。
 昨日、私は大変有り難いお話を聞いた。高松和子先生がお届けしました中に、信心はまあここにはしげしげと参りは致しませんけれども、いろいろまあ問題にあたってなかなか頭のいい人であり、まあ云うならば教育なんかも造詣が深いというか、人だけれども、例えば親が言うて聞かせるという教育なら親が子に対する教育といったような事が、ただ云うなら、学問があっても人が助からんといったような意味の事が分かったんでしょう。
 どういう事をそこの家内がお参りして来てまあ高松和子先生に話した事は、最近非常に頭のいい人で神経質な人ですから、まあ人のあらが見えてしようがないわけですね。自分が出来れば出来る程目につく。ところが、最近は全然その人を責めないという信心を日々勤めの先でも家庭に帰っても、もう見事にそれをやり抜いてそしてお参りは大変たいして出来ませんけれども、夫婦で毎日こげな有り難い信心共励が出来よる夫婦ちゃめったにないぞねと言うてまあいう話を高松和子先生が聞いて、素晴らしい事だなあというて聞かせて頂いた事です。
 自分が助かるという事は人を責める心があったりしとったら自分は助かっとらん証拠ですね。もう人は責めんとこう決めた以上、もう絶対勤めに行ってても自分の家に帰ってもそれで、そしてそこから生まれて来る体験が日々夫婦での信心共励になる。俺たちはまあ或る一つのところを通り越えて或る事が成就したら俺たちゃどうでも俺達夫婦は勿論一家が合楽の信心に傾倒し、お役にも立つ信者氏子にならせて頂かなければならんねというて、夢のような話が最近出来るようになったという話を高松和子先生が聞いてお届けするんです。それを聞いて私は思うた。本当に確かに自分が助かるという事が先ずですよ、ね。それにはね昨日も梅の実会でしたからもう本当にまあ、兎に角自分が助かろう、自分が助からなければならないというところに、教えを行じて若い嫁さんたちばっかりの会ですからね、梅の実会は。まあ云うならば主人に子供にそして姑親にというそういう中にあって自分が助からんならんというですか、真剣です。
 もう皆さんの発表を聞いてまあ驚く、いつも驚くばかりですけれども、信心ちゃありがたいなあ、まあ本当にこういう様子を例えば皆があの例えば梅の実会あたりに一遍参加してみたらこりゃどうでんうちの嫁御も梅の実会に参加させにゃこりゃ出来んというような思いが強うなる位に素晴らしい会です。
 この通りで例えば嫁御達が信心を頂いていってくれるならば、家庭がもう繁盛円満、信心の継承はもう絶対間違いないという感じです。まあだ云うならば、若い嫁御達ですからあのほんなまあ乳飲み子、二つ三つの子供達を持っておる人達ばっかりなんです、ね。中に私方の若先生の家内、嫁が発表しとりましたが、先達から孫の、いわゆる恵城の誕生であちらこちらから、いろいろとあのプレゼントを頂いておる中に、あの写真機のまあだ小学校一年生ですからね、そんなまあ玩具のなんかならばってん立派な写真機をあのお祝いに頂いてる。それからあのう自転車をこれも大変立派な自転車だそうですが、を頂いておる。これだけのおかげの中にある。このおかげをね、子供にどのようなふうに伝えていったらよかろうかという事を思うたという話をしております。
 私はそれを聞きながら、本当に信心の継承という事が言われますように教会でもそうです。子供達が教会に生まれておって、教会を後を継がんと言ったり信心がなかったりという教会が多い。こりゃ教会だけの事じゃありません。信者の家でもそうです。熱心に信心は出来ておるにも拘わらず、云わば子供達がついて来ないというところもありますけれども、云わばこういうような思い、この有り難いものをどう子供に伝えようかとまあ心を神様に向けさせて頂いた。そういう時に昨日又、その話が出てからここに又持って来たんですけれども、恵城が昨日私は初めて又聞かせて頂いたんですけれども、これは川の堤防の所で川に落ち込もうとしておったお地蔵さんだったそうですね。だから、可哀想と思って僕が助けに来たち言うて拾って来たそうです。このお地蔵さん。時にあの神様は親がね、有り難いものを伝えるとか伝えないとかいうのじゃなくて、親がその気になって神様に縋らせて貰えば神様が教えて下さるなあという事を、まあ実感したと言うて、その日に頂きましたお地蔵様のお話しをまあ子供にさせて頂いたというのです。
 本当に子供に信心の継承でも、どうしてこの有り難いものを子供に伝えようかと、先ずは自分自身が有り難うなって神様に願わなければ出来ないという事です、ね。
 真がなければ人は助からんという事は、真がなからなければ自分自身も助からん。自分自身が助からずして、その有り難いもの、なら子供に伝えようと言うても伝わらんのだけれども、ね。そういう気持ちになると、神様が伝えさせて下さる。そういう、云うならば働きが生まれて来るという事です。これはちょっと別ですけれどもね。外の事ですけれども、いつも申しますように、本当に私共がこう一つの事があると、その前後に必ず神様の生き生きした働きを受けるですね。合楽の皆さんは、昨日もこれはもう私共が聞かせて頂いても、信心のない主人がそういう云うたり思うたりするような、或る事件があった。いま毎日日参して来ておる。親子三人でとてもこんな事を父親に話したらもうどんなにそのかんしゃく玉が破裂するか分からんと思うてしきらなかったけれども、いよいよぎりぎりのところを押し詰められて、今日は神様にお願いして話させてもらおうと思うて話した。 昨日一昨日の話、ところが案の定それこそ、かんしゃく玉が破裂して親子三人お前たち三人な出て行けという烈火のようになって怒ったとこういうのである。三人の者も大体腹合わせて出て行けち言うなら出て行くちいうごたる腹も作っとった。ところがその間髪を入れず隣からかぼちゃを頂いた。配って来なさった。そん時に、親子三人の者がいつも御理解頂いとるもんじゃけん、それこそ親子三人が顔を見合わせて、これはお父さんがどげんおごんなさったっちゃ一つ南瓜でいかんならんばいのとまあ言わんながらに、それを三人ながら感じたと言うのです。しばらくしたらもう二階から、に上がっておられた御主人が優しゅうお母さんを呼ばれて、もう出て行けというような事もなくて治まったというお届けが昨日ありましたけどね。
 合楽では本気でその気になると、私の長男の家内が申しておりますようにね。本当にこういう勿体ないようなおかげを子供達にどげなふうにして伝えようかと本気で思い、本気で願わせて頂く所になら、こういう地蔵さんの問題がそこにあって、その事からいろいろ話させて頂いたというおかげ話を発表しとりましたが、先ず親が真にならなければ子供にも伝わらない。ましてやここではこりゃ教師に対する御理解でございましょうけれども、真がなければ人は助からんと言われるが、いかにお話しが上手、勉強が出来ておる、常識が発達しとると言うても、ただ常識やら、ただ勉強が出来ておるというだけでは人は助からん。勿論、自分も助からん。出来ておる為にかえって出来ていない者を責めるような、それさえ出来てくる。それを昨日、高松和子先生から聞かせて頂いた話じゃないですけれども、そういう兎に角、もうまあ何ですかね、もう人を責めるという事だけは自分が助からん。自分が助かる為には先ず人を責めんという事を一つ頂き抜こうとまあ決心した訳でしょう。それによって、家庭が円満になるだけではなくて、二人の子供さんがありますけれども、なかなか親の言う事を聞かん。まあ云うなら、親の悩みであったけれども、その二人の子供が最近は見違えるように変わったという話であった、ね。言わんでも教えんでも、本人が真、自分自身が助かって行く事によるとそういう、云わば子供達までもおかげを頂いていく事になり、ね、私はこれはお道の教師に対する、もう教祖様の御教えでございましょうけれども。皆さん一般の方達が御理解を頂いて真がなからなければとこう言われるという事は、先ずは自分が真を以て助からなければ人は助からないぞと、自分が助からずして人に伝えたって人が助かる筈もないぞという事は、私共の上にも言える事じゃないでしょうか。
 私共が先ずは真にならせてもろうてね。先ずは自分自身が助かり、真になれば必ず云うならばね、人を責めんぞと、責めるという事なんか責める資格もない自分であるという事が分かるという事が真です。真は沢山あります。けどもその一事だけでもです、守る事にならせて頂いたら自分の助かりがね、云うなら今日一日の体験を家内と話して信心の共励が出来るようなおかげも頂いておるという事、ね。それに子供達の助かりも感じられるという事であります。真がなければ、人は助からんという事は自分自身が助からなければね。自分が真と思うておっても、自分が助かっていないとするならば、それは本当の助かりじゃない。いや助かりと思うておっても、人が助かってこないならば、まあだまあだ云うなら真が足りんのだと思わなければならんという事ですね。どうぞ。